食事は神事

  食事は神事、もしくは神事として受け止めることができるものです。

箸とは、日本の神話『古事記』において、スサノオという神が箸を拾うことで人と出逢ったように神と人とのハシワタシをしてくれるもの。

そもそも、『ハシ』という言霊自体が、二つのものをつなぐ示しという意味があります。

(橋=岸と岸をつなぐ、端=端っこは二つのものをつなぐところ)

正月のお箸は両方からつまめるようになってますが、あれは取り箸ではなく、神と人が同時に食べれるように配慮された形。

食事の際に手前で横向きに置かれた箸は手に取る前は神様の食事を意味し、手に取った後は人間の食事になったことを意味する境界線を示す。

私たちの口に入るものは何一つゼロから生み出すことはできない。必ず天地万物という自然界の力を借りている。だから、まず最初に三界の神(天つ神・国つ神・八百万の神)に捧げる。その残り物を人はいただく。

とはいえ、神はエネルギー、形はない。ゆえに物は減らない。では何を食べているのか?それは人の想いである。

その行為を『嘗』という。『嘗』という漢字を見ると、”光”を”口”から取り込んで”旨”い!となっている。僕らが彼らを想うその氣持ちが彼らのご馳走となる。《ちなみに、その年の新米を最初に天照大神という伊勢の神様に捧げるお祀りを【神嘗祭】(=10月15.16日)という》

神々の喜びの波動が沁み渡った食事は、味も波動も変わるもの。元氣になるし、健康で幸せになる。これを「のこりものには福がある」という。

  食前の挨拶である『いただきます』は”頂き坐す”であり、山の頂きから受け取ることを意味する。すべての恵みは高き所から低き所へと流れる。

”いただきます”の本質は、恵みの源から届けられるものをただただ有難く感謝していただくこと。大切なのは目の前の食事に心をこめること。

食後の挨拶である『ごちそうさま』は”ご馳走様”であり、走り回ってくれたことに感謝する言葉。”お疲れ様”にニュアンスは近い。だが、ある点で決定的な違いがある。お疲れ様は他人事だが、ご馳走様は自分事なのだ。だって、食べてしまっているのだから。受け取った恩にどう応えていくのかが問われる。人の労苦を想い、動植物の尽きし命を想うとき、この身を通して何をなすべきかにスイッチが入る。生かされた命を何に使うのか。

その決意を新たにする言葉が『ごちそうさま』。

『いただきます』では”何のおかげ”で生かされているかを思い出し、『ごちそうさま』では”何のため”に命を使うのかを問い直す。

もし、ある人が食事のたびに『いただきます』と『ごちそうさま』を今日から丁寧にし始めたなら、その人の人生はどうなると思いますか?

もし、多くの人が、食事のたびに『いただきます』と『ごちそうさま』を大切に唱えるようになるなら、世界はどうなると思いますか?

もっとも身近なことにこそ、もっとも世界を変える力を秘めているような氣がします。 

世界が変わるのは意外と簡単かもしれません。

あなたと出逢えた今日のご縁に感謝します。

参考までに僕が毎回の食事ごとに唱えているイノリコトバを載せておきます。

参考にされてください。

またもしよければあなたのイノリコトバを教えてください。

祈りがあたりまえの世界になるといいですね。

感謝∞弥栄

山田祥平   合掌

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