世界の構造~僕らの世界は3つでひとつ~

世界の構造~僕らの世界は3つでひとつ~

世界は三層に分かれている。

天よりも上を天上の世界『高天原』と言い

地よりも下を地下の世界『黄泉の国』と言い

天地に挟まれた真ん中の世界を『中つ国』と言う。

この中つ国が僕らがリアルに生きている世界である。

中つ国とは肉体をもって存在している”今ここ”の世界。

天上の世界は、私たちが肉体を宿す前の御魂だけのクリアな世界。

地下の世界は、肉体に蓄積した罪穢れを集めて綺麗にお掃除してくれる世界。

大切なことは、この三つの世界の真ん中で僕らが生きているという自覚。

世界はひとつじゃない。

僕らの世界は3つでひとつ。

僕らが生きているこの世界を現世といい、うつし世と読む。

中つ国とは天上の高天原が映し出された影の世界。

プロジェクターを通してスクリーンに映し出された世界である。

現世を変えたいと思うなら、脚本を変えないといけない。

起きている現実を理解したいなら、脚本を読み込まないといけない。

その脚本が神話という上(神)の話なのだ。

脚本を自分で書けるということを知っているのなら、それを演じる舞台である現世は、つくりたい世界を味わう場所になるため、わくわくする場所になる。

脚本を自分で書けるということを知らないのなら、氣がついたら立たされていたこの現世という舞台は、あやつり人形のようで、なんのために生きているのかわからず苦しくなる。

天上にいる神は、天神(あまつかみ)と呼ばれ、地下にいる神は、地祇(くにつかみ)と呼ばれる。

天神たちは、なんのとらわれもなく生きていいんだよ!という魂が望む生き方の手本を神話を通して演じて示してくれている。神様なのに・・って突っ込みたくなる要素満載だ。純粋で正直でまっすぐで・・。人間以上に人間らしい。でもね、それこそが神の本質。だって、僕らの上(元)だから。

地祇たちは、僕らがこの現世において、どんな失敗をしようと、どんな醜態をさらそうと、すべて受け入れ許してくれる。まるごとオッケーを出してくれる。なぜなら、それらすべてをくぐり抜け、経験し尽くした神様たちだから。

私たちは、あるがままの生き方を示してくれる天神とすべてを受け入れ赦してくれる地祇に見守られながら八百万の神と共に現世を生きている。だから、なーんも心配いらない。

僕らは一人で生きてるわけじゃない。

神々と共にある。

じゃなかったら、日本にこんなにもたくさんの神社はない。

コンビニよりも多い8万社。いつでも会いにいける。

ありがたい国に生まれたよ。ありがたい時代に生まれたよ。

僕らは肉体を持っている間しか、この現世を味わえない。

肉体をもってしてしかできないことがある。

物を持ち運ぶこと、物に触れること、食べること、飲むこと、感じること、味わうこと、楽しむこと、悲しむこと、苦しむこと、泣き叫ぶこと。

天上から見たらどんなにか羨ましいことだろう。

今を生きるとは、3つの世界の存在を知りながら真ん中の国である現世を一所懸命に生きること。

ほんとうの自分を生きるとは、現世だけで生きているのではないと知り、御魂で生きること。

3つの世界を生きていると知るだけで、”今”がかけがえのないトキに思えてくる。

3つでひとつ。かけがえのないトキを分かち合えたあなたとの出会いに感謝します。

山田祥平 感謝∞弥栄 合掌

この考え方に共鳴してくれる方に、この祝詞を送ります。

僕のつくったオリジナルの祝詞です。

参考までに。

http://ameblo.jp/kazeproject/entry-12252025261.html

ご感想などいただけたら嬉しいです。

天下と地上は中つ国を二分する

中つ国において、天よりも下を天下といい、地よりも上を地上という。

中つ国は天下と地上から成っている。

天下を治めるのが、天上(高天原)のアマテラスより統治のために派遣されてきたニニギとその子孫であるイワレビコから始まり現代の天皇陛下に至る125代のスメラミコトたち。

地上を納めるのが、地下(黄泉の国)の一部である根の国のスサノオより大国主という名前をもらい、国づくりを任されたオオナムチ(大国主の本名)を中心とした出雲系の一族。

中つ国は天から降りてきた天孫系の一族と

地から這い上がってきた出雲系の一族の協力体制により支えられている。

天下と地上、この両者がようやく手を取り合って仲良くおさめていこう!となった出来事が伊勢と出雲の同時遷宮であった。

伊勢の皇大神宮(内宮)は、スメラミコト(天皇)の祖先を祀る。

出雲の杵築大社(出雲大社)は、大国主を祀る。

天下を治めるものと、地上を納めるもの、この両者の氣を再生するための一大イベントである遷宮を同時に行うということは中つ国を共に協力してよりよき世界にしていこうと意気を合わせる大切な機会だったのだ。

このことで、中つ国における和合は急激に進んでいく。

その結果としての宮家の典子さまと、出雲家の千家国麿氏の御成婚があった。

神々の世界で成立したことは、時間をおいてうつし世である現世に示される。

今回の宮家と出雲国造家の結びはこのことを実にわかりやすく示してくれた出来事だった。

この図の真ん中右半分に図示してあります。

うしはくとしらすの概念はこのリンクを参照のこと。

~うしはく(領有)としらす(統治)~ これが国譲りの真髄

~うしはく(領有)としらす(統治)~ これが国譲りの真髄

~うしはく(領有)としらす(統治)~

「汝(な)がうしはける葦原(あしはらの)中国(なかつくに)は、我(あ)が御子(みこ)のしらす国と言依(ことよ)さし賜(たま)えり。」

これは天照大神と高木神の詔(みことのり)を使者である武甕槌(タケミカヅチ)が大国主に伝えた言葉。

ここで重要なのは、『うしはく』と『しらす』の意味。

ハツクニシラススメラミコトという言葉がある。

これは、初めて国を治らしたスメラミコト(天皇)という意味。

これは、初代天皇である神武天皇や、初めて神々の祀り方をととのえた10代崇神天皇のことを指す。

ちまたでは、力による領有が”うしはく”であり、徳による統治が”しらす”という説明がされる。

その説明であながち間違ってはいないのだが、

こう書くと、”うしはく”はダメで”しらす”こそが大事だと捉えられることがある。

だが、そんなことはない。

どっちも大事である。

”うしはく”は決して暴力的なことを意味しない。

”うしはける者”とは、頼り甲斐のあるリーダーということなのだ。

「おまえらの面倒は俺が全部見てやる!だから、俺についてこい!!」

そう言い切れるカリスマ的なリーダーである。

面倒見がよくて、仲間を大切にし、困っていたら助け、弱きを守り強きをくじく。

食べ物を確保し、生活を安定させ、敵から仲間を守る。

そんな頼れる漢がうしはける者。

では、もうひとつの統治の仕方、”しらす”とはどういうことか?

しらすとは、依存しあう関係を断ち切ること。

うしはくには、領有という漢字が当てられる。

リーダーが仲間を引っ張る。国民も国土もリーダーが把握する。

おまえらの面倒は俺が見てやるからおまえらも俺についてこい!

それがうしはく。

一方の、しらすは、国民も国土も誰の所有でもないという立場に立つ治め方。

しらす者は、ただ天の意思にのみ寄り添い動く。力をもたないので頼り甲斐はない。

今生の人間関係の損得よりも天の意思が優先される。

行動の判断基準は個人の意思というよりは全体の調和に適うかどうか。

損得を超えた次元にあればこその意思決定。それをこの世界でもっとも体現されてる方が天皇陛下である。真に平和を希求するものからすればこれほど信じられるリーダーはいない。

うしはくは、個人の力量が試される。

しらすは、個人の徳の高さが試される。

うしはける者の代表としてアマテラスよりニギハヤヒに与えられた神宝は、十種の神宝という、現実に悩み苦しむ民を具体的に助けることのできるツール。

しらす者の代表としてアマテラスよりニニギに与えられた神宝は、三種の神器という、自らを磨き徳を高めるためのツール。

うしはく者としらす者、この両者の和合こそ、この国における”国譲り”。

それは、いわゆる政権交代ではない。

役割分担。

残念ながら世の中から目先の利益で動く人はなくならない。その人たちをまとめる頼れるリーダーは絶対に必要だ。同時にそれだけでは真の平和に近づくことはできない。

損得をこえたところで天意に基づいて動くリーダーもまた絶対に必要。

うしはくリーダーとしらすリーダーは、お互いの役割を求めあう。

損得をこえたところで動くには力はもたないほうがいい。

すべてを手放す必要がある。大いなるものにすべてを委ねることが求められる。

しらす者が無防備で天地の渡し(私)としての役割を果たせるように力あるものが守り支える(僕)。

卑弥呼とその弟

ニニギ(スメラミコト)とオオクニヌシ

神武天皇と長髄彦

ヤマトヒメとイザワトミ

天皇(朝廷)と征夷大将軍(幕府)

国譲りとは、うしはける者の持つチカラをしらす者に預け、しらす者の持つ徳をうしはける者に託すという、この国にしか存在し得ない究極の協力体制のことである。

これにより、中国が70年の国家であるのに対し、日本は2677年という世界一の長さを誇る国家になるのである。国譲りを対立と見るか、協力と見るか。

解釈は自由。ならば自国を愛せる解釈を僕は与えたいと思う。 山田祥平 合掌

食事は神事

  食事は神事、もしくは神事として受け止めることができるものです。

箸とは、日本の神話『古事記』において、スサノオという神が箸を拾うことで人と出逢ったように神と人とのハシワタシをしてくれるもの。

そもそも、『ハシ』という言霊自体が、二つのものをつなぐ示しという意味があります。

(橋=岸と岸をつなぐ、端=端っこは二つのものをつなぐところ)

正月のお箸は両方からつまめるようになってますが、あれは取り箸ではなく、神と人が同時に食べれるように配慮された形。

食事の際に手前で横向きに置かれた箸は手に取る前は神様の食事を意味し、手に取った後は人間の食事になったことを意味する境界線を示す。

私たちの口に入るものは何一つゼロから生み出すことはできない。必ず天地万物という自然界の力を借りている。だから、まず最初に三界の神(天つ神・国つ神・八百万の神)に捧げる。その残り物を人はいただく。

とはいえ、神はエネルギー、形はない。ゆえに物は減らない。では何を食べているのか?それは人の想いである。

その行為を『嘗』という。『嘗』という漢字を見ると、”光”を”口”から取り込んで”旨”い!となっている。僕らが彼らを想うその氣持ちが彼らのご馳走となる。《ちなみに、その年の新米を最初に天照大神という伊勢の神様に捧げるお祀りを【神嘗祭】(=10月15.16日)という》

神々の喜びの波動が沁み渡った食事は、味も波動も変わるもの。元氣になるし、健康で幸せになる。これを「のこりものには福がある」という。

  食前の挨拶である『いただきます』は”頂き坐す”であり、山の頂きから受け取ることを意味する。すべての恵みは高き所から低き所へと流れる。

”いただきます”の本質は、恵みの源から届けられるものをただただ有難く感謝していただくこと。大切なのは目の前の食事に心をこめること。

食後の挨拶である『ごちそうさま』は”ご馳走様”であり、走り回ってくれたことに感謝する言葉。”お疲れ様”にニュアンスは近い。だが、ある点で決定的な違いがある。お疲れ様は他人事だが、ご馳走様は自分事なのだ。だって、食べてしまっているのだから。受け取った恩にどう応えていくのかが問われる。人の労苦を想い、動植物の尽きし命を想うとき、この身を通して何をなすべきかにスイッチが入る。生かされた命を何に使うのか。

その決意を新たにする言葉が『ごちそうさま』。

『いただきます』では”何のおかげ”で生かされているかを思い出し、『ごちそうさま』では”何のため”に命を使うのかを問い直す。

もし、ある人が食事のたびに『いただきます』と『ごちそうさま』を今日から丁寧にし始めたなら、その人の人生はどうなると思いますか?

もし、多くの人が、食事のたびに『いただきます』と『ごちそうさま』を大切に唱えるようになるなら、世界はどうなると思いますか?

もっとも身近なことにこそ、もっとも世界を変える力を秘めているような氣がします。 

世界が変わるのは意外と簡単かもしれません。

あなたと出逢えた今日のご縁に感謝します。

参考までに僕が毎回の食事ごとに唱えているイノリコトバを載せておきます。

参考にされてください。

またもしよければあなたのイノリコトバを教えてください。

祈りがあたりまえの世界になるといいですね。

感謝∞弥栄

山田祥平   合掌