三界祝詞〜天地人(あめつちひと)の渡しを生きる〜

オリジナルでつくった祝詞《三界祝詞》

天界・地界・人界の三界の渡しとして生きる私であれるように日々唱えれらるものとして生み出した三界祝詞です。

ようやくその解説文と言えるものができました。

よかったらご覧になり、必要であればご活用くださいね。

 

〜天地人の渡しを生きる〜

 

僕らは肉体を持って生きている。

でも肉体だけで生きているわけではありません。

僕らは魂を持っている。

でも、魂だけで生きているわけではありません。

僕らは言うなれば魂を宿した肉体。

言い換えれば、肉体を借りている魂。

たましいとは、本来こう書きます。

”魂(たま)魄(しい)”

魂とは御霊(みたま)のこと。魄とは肉体のこと。

両者の結合こそ、本来のたましい。

それは大いなるものから与えられたチャンスという名の賜わりし霊(=たましひ)

それを産霊(むすひ)という。命の結びである。

僕らには肉体を宿す前に御霊(みたま)として存在していたトキがあった。

そこには形がなく、それゆえに滅びという概念も存在しなかった。

形あるものは必ず変化する。ゆえに僕らのいるこの世界を無常の世界という。

形あるもののない世界、それを常世(とこよ)と呼ぶ。

常世の御霊たちは、氣枯れなき『天』より舞い降りた。

「死」が約束される人の世に、感情に振り回される憂き世に、思った通りにいかないことばかりの現世(うつしよ)に。

敢えて不自由なこの世界を選んだのは肉体をもってしかできないことがあるから。

この世界をほんとうに変えていくためには形にするということが必要不可欠だから。

それはとても勇氣がいること。でも、彼らはそれを選んだ。

その”彼ら”とは、私たち一人一人のこと。

僕らは勇氣をもってこの世界で生きることを選択した『天』より舞い降りし御霊だった。だが、ひとたび肉体を持つと滅びに向かう肉体を維持するために本来の御霊(みたま)の目的を忘れてしまう。肉体だけで生きてると思い込む。

どうか思い出してほしい。なんのためにここにきたのか。天つ神たちとの約束を・・

そして、僕らはこの世での使命を終えると肉体から離れる。そのとき、肉体は『地』に還る。『地』は肉体がいかなるものであっても迎え入れてくれる。醜くても汚くても受け入れ認め赦してくれる。大きな愛で包み込む。

それが『地』の役割。その愛の深さを想うとき、僕らは虚飾を脱ぎ、恐れを捨てて現世においてさえ御霊の望む方向へと歩みを進めることができる。

『天』に送られ、『地』に受けとめられる。

その間を生きる。

私たちは、天と地の間を生きる。天と地を渡すのだ。

それゆえに僕らは自分たちのことを”わたし”と呼ぶ。

天と地の間の世界を真ん中の国という意味で”中つ国”という。

中つ国の担当は人間と八百万の神である。

この世界に存在する八百万の神という森羅万象すべてと共に現国としての現世を形あるものとして創造していくのが人間がこの地に存在する意味。

その役割を全うするために必要な行いが”包身”を祓い、”氣枯れ”を浄めるという行為であり、そのための必需品が大麻であり、水。

それを日々の日常に落とし込めるようにオリジナルでつくった祝詞がこの『三界祝詞』。三界とは、天界・地界・人界を指す。その渡しを生きる私でありたいと。

後半は、

天つ神の力をひきだして本来の御霊の働きに返らせる祓いの言葉

とほかみゑひため

国つ神の大きな愛に委ねることのできる安心の守り言葉

あいふへもをすし

現世を共に創造していくパートナーである八百万の神の助けを得る言葉

あやま いきに ふぬう へえて もこけ をよろ すゆん しゐさ

最後に私たち人間は実行部隊としての役割を果たすよ!という宣言の言葉

あはら いちり ふむく へねせ もおれ をその すつる しなわ

を型魂としての力を持つヲシテ文字で記しました。お役に立てれば幸いです。

あなたがあなたの命を生き尽くすことができますように ・・  山田祥平 拝

《想像して創造する》〜天夢を天地に〜

【想像して創造する】

僕が伝えたい神話は過去の話ではない。

神話は今なお更新され続けている。一人一人の想像力の中に。

僕たちには無限の想像力がある。そして、思い浮かべたことが現実となる。うつし世(現世)とは、想像の世界が映し出されたもの。

どちらが本当の世界なのでしょう?笑

言い伝えられてきた神話や歴史。

その真偽を問うことを僕らはこれまでやってきました。

ゴメンナサイ!僕はそこから卒業します!

僕は、実際に起きたことの真偽や善悪を問うよりも

コトに関わった人たちが何を想いどう行動したのかを大切にしたい。

その先人たちの想いという過去の種を、今に花と咲かせ、未来に実と結ばせたい。

そこで鍵となるのが天智天皇と天武天皇。仲が悪そうな印象がある方も多いですが、果たして本当にそうなのでしょうか?

僕には二人がこの国を平和にしようという志のもと、幽れたる契りを交わし、役割を分けたとしか思えないのです。血縁こそが信頼関係だと言われた時代に、天智の娘の二人を嫁にしている天武。あとを継いでくれないかとまで懇願するほどに天武に信頼を寄せていた天智。

天智が中大兄皇子だったころ、中臣鎌足と大化改新の打ち合わせをしていた場所がある。多武峰(とうのみね)の山頂、現在の桜井市の談山神社の境内である。この山頂からは藤原京が一望できる。大化改新の打ち合わせとは決して暗殺計画を意味しない。新しい国づくりのビジョンを描いた。大和三山に囲まれた藤原京を眼下に改新の詔を起草した。

そこには公地公民を目指すと書かれている。これは今に直結する。

土地と人民の私的所有を廃してすべての土地と人民を天皇の預かりとしてすべて天に帰すというもので、これが国民国土を大御宝(おおみたから)と呼び天照大御神からの預かり物として慈しみをもって国民に接する天皇陛下のあり方の根幹を成している。

 この理想を胸に大化改新を推し進めた天智に対し、野に下り吉野の山中にて体力に加え霊験をも身につけた修験道の行者などの地の力の強い人々との繋がりを深めた天武。まさに『智』と『武』に役割を分けた。活動する場は違えど目指すところは同じ。僕には天智の志を天武が引き継ぐと約束していたようにしか思えない。天武が天皇に即位した後に行われた施策はほぼすべて天智の意向を受け継いだものといってよい。天智亡きあと都を近江より飛鳥の浄御原宮へと移す。藤原京造営を見据えてのこと。天智と天武の幽れたる契りの終着駅が古代史最大(平城京、平安京より大きい)にして初の碁盤の目状に設計された都市である藤原京なのだ。その道半ばで倒れた天武の意志を継いだのが天智の娘であり天武の妻である持統天皇なのだ。

『春過ぎて  夏きたるらし  白妙の  衣ほしたり  天香久山』by 持統

〈天武と過ごした春めかしい時期は過ぎ去り、いよいよ夏本番、私が覚悟を決めて動くとき!天地の結びの山である天香久山に絹でできた和妙をあつらえるように、この世界に平安をもたらさん〉(祥平訳)

僕には持統の覚悟を示す歌に読めてしまう。また、天智と天武の夢である藤原京を形にした持統が成したもう一つの大業は伊勢神宮を今日の有り様に仕立てたこと。式年遷宮はこの時から始まり、天照大御神を最高神とする古事記もこの時に描かれ、その女神に仕える未婚の女性である斎王も天武の娘である大伯皇女から始まっている。

 もしかするとそれ以前は伊勢(特に内宮)はそれほど重要な場所ではなかったのかもしれない。

 天智は天皇としてのあり方を定め

 天武は古事記という新しい神話をつくり

 持統はそれを形にした。

三者は志で繋がっている。その想いを僕は今に興したい。

新しい神話がまた今新たに生まれようとしている。

神伝人(つたえびと)

 山田 祥平

http://tsutaebito.kazepro.org/

【神道とは元を想う心である】《Shinto is to feel the roots of you.》

神道は宗教ではありません。

Shinto is not teaching.

どうするかではなくどうあるか。

It is not the way to do , but the way to be.

神道における神は絶対的なものを意味しません。

God is translated to 神(”Kami”) , but “Kami” doesn’t mean the absolute one.

下に対する上。上と書いてカミと読みます。

God is called “Kami” in Japanese. “Kami” is equally to “the Ups“ toword “the Downs”.

川が上流から下流へと流れてくるように、上が流したものを下が受け取る。

As river flows from the mountain to the sea , it’s natural that “the Ups” release and “the Downs” receive.

上があるから下がある。それは善悪でも優劣でもない。

“The Ups” and “the Downs exist altogether. The difference doesn’t mean worth but position.

それが日本人にとっての神。

Japanese people worship all their Upper ones as “Kami”.

私たちが今あるのは誰のおかげなのか、なんのおかげなのか。

What let us live ? Who makes us live ?

「あなたのおかげで今があります!」と言える相手がすべて神。

“Kami” is all existence ( including us , human beings) to whom we can say sincerely “ we are happy now thanks to you! “

ゆえに、すべての存在が必要であり、すべてのことには意味があるとする価値観においてはあらゆる存在が神となる。

That’s why , if we recognize all as synchronicity and serendipity ,all existence around you would be “Kami”.

貧乏神も疫病神も神であり、貧乏や災難・病気のおかげで今があると思えた人がいたからそれらも神となった。(※ここだけ英訳を変えました)

So, someone’s “Kami” is not always other one’s “Kami”.

だから日本の神様は何も要求しない。

“Kami” doesn’t request you to worship.

問われるのは私たちのルーツと言える神に対して自分たちがどうあるかだけ。

What is needed is if we want to worship or not.

生かされていることへの感謝と、その恩にどう応えていくのかの決意。 それを問い続けていくことが神道である。

Shinto is keep on questing the roots of us.

That’s why we can’t help making through our life “ the two promises “ ―[ Gratitude ] for your life provided by “Kami” and [Commitment]  to response the will of “Kami”.ー

世界の構造~僕らの世界は3つでひとつ~

世界の構造~僕らの世界は3つでひとつ~

世界は三層に分かれている。

天よりも上を天上の世界『高天原』と言い

地よりも下を地下の世界『黄泉の国』と言い

天地に挟まれた真ん中の世界を『中つ国』と言う。

この中つ国が僕らがリアルに生きている世界である。

中つ国とは肉体をもって存在している”今ここ”の世界。

天上の世界は、私たちが肉体を宿す前の御魂だけのクリアな世界。

地下の世界は、肉体に蓄積した罪穢れを集めて綺麗にお掃除してくれる世界。

大切なことは、この三つの世界の真ん中で僕らが生きているという自覚。

世界はひとつじゃない。

僕らの世界は3つでひとつ。

僕らが生きているこの世界を現世といい、うつし世と読む。

中つ国とは天上の高天原が映し出された影の世界。

プロジェクターを通してスクリーンに映し出された世界である。

現世を変えたいと思うなら、脚本を変えないといけない。

起きている現実を理解したいなら、脚本を読み込まないといけない。

その脚本が神話という上(神)の話なのだ。

脚本を自分で書けるということを知っているのなら、それを演じる舞台である現世は、つくりたい世界を味わう場所になるため、わくわくする場所になる。

脚本を自分で書けるということを知らないのなら、氣がついたら立たされていたこの現世という舞台は、あやつり人形のようで、なんのために生きているのかわからず苦しくなる。

天上にいる神は、天神(あまつかみ)と呼ばれ、地下にいる神は、地祇(くにつかみ)と呼ばれる。

天神たちは、なんのとらわれもなく生きていいんだよ!という魂が望む生き方の手本を神話を通して演じて示してくれている。神様なのに・・って突っ込みたくなる要素満載だ。純粋で正直でまっすぐで・・。人間以上に人間らしい。でもね、それこそが神の本質。だって、僕らの上(元)だから。

地祇たちは、僕らがこの現世において、どんな失敗をしようと、どんな醜態をさらそうと、すべて受け入れ許してくれる。まるごとオッケーを出してくれる。なぜなら、それらすべてをくぐり抜け、経験し尽くした神様たちだから。

私たちは、あるがままの生き方を示してくれる天神とすべてを受け入れ赦してくれる地祇に見守られながら八百万の神と共に現世を生きている。だから、なーんも心配いらない。

僕らは一人で生きてるわけじゃない。

神々と共にある。

じゃなかったら、日本にこんなにもたくさんの神社はない。

コンビニよりも多い8万社。いつでも会いにいける。

ありがたい国に生まれたよ。ありがたい時代に生まれたよ。

僕らは肉体を持っている間しか、この現世を味わえない。

肉体をもってしてしかできないことがある。

物を持ち運ぶこと、物に触れること、食べること、飲むこと、感じること、味わうこと、楽しむこと、悲しむこと、苦しむこと、泣き叫ぶこと。

天上から見たらどんなにか羨ましいことだろう。

今を生きるとは、3つの世界の存在を知りながら真ん中の国である現世を一所懸命に生きること。

ほんとうの自分を生きるとは、現世だけで生きているのではないと知り、御魂で生きること。

3つの世界を生きていると知るだけで、”今”がかけがえのないトキに思えてくる。

3つでひとつ。かけがえのないトキを分かち合えたあなたとの出会いに感謝します。

山田祥平 感謝∞弥栄 合掌

この考え方に共鳴してくれる方に、この祝詞を送ります。

僕のつくったオリジナルの祝詞です。

参考までに。

http://ameblo.jp/kazeproject/entry-12252025261.html

ご感想などいただけたら嬉しいです。

天下と地上は中つ国を二分する

中つ国において、天よりも下を天下といい、地よりも上を地上という。

中つ国は天下と地上から成っている。

天下を治めるのが、天上(高天原)のアマテラスより統治のために派遣されてきたニニギとその子孫であるイワレビコから始まり現代の天皇陛下に至る125代のスメラミコトたち。

地上を納めるのが、地下(黄泉の国)の一部である根の国のスサノオより大国主という名前をもらい、国づくりを任されたオオナムチ(大国主の本名)を中心とした出雲系の一族。

中つ国は天から降りてきた天孫系の一族と

地から這い上がってきた出雲系の一族の協力体制により支えられている。

天下と地上、この両者がようやく手を取り合って仲良くおさめていこう!となった出来事が伊勢と出雲の同時遷宮であった。

伊勢の皇大神宮(内宮)は、スメラミコト(天皇)の祖先を祀る。

出雲の杵築大社(出雲大社)は、大国主を祀る。

天下を治めるものと、地上を納めるもの、この両者の氣を再生するための一大イベントである遷宮を同時に行うということは中つ国を共に協力してよりよき世界にしていこうと意気を合わせる大切な機会だったのだ。

このことで、中つ国における和合は急激に進んでいく。

その結果としての宮家の典子さまと、出雲家の千家国麿氏の御成婚があった。

神々の世界で成立したことは、時間をおいてうつし世である現世に示される。

今回の宮家と出雲国造家の結びはこのことを実にわかりやすく示してくれた出来事だった。

この図の真ん中右半分に図示してあります。

うしはくとしらすの概念はこのリンクを参照のこと。

~うしはく(領有)としらす(統治)~ これが国譲りの真髄

~うしはく(領有)としらす(統治)~ これが国譲りの真髄

~うしはく(領有)としらす(統治)~

「汝(な)がうしはける葦原(あしはらの)中国(なかつくに)は、我(あ)が御子(みこ)のしらす国と言依(ことよ)さし賜(たま)えり。」

これは天照大神と高木神の詔(みことのり)を使者である武甕槌(タケミカヅチ)が大国主に伝えた言葉。

ここで重要なのは、『うしはく』と『しらす』の意味。

ハツクニシラススメラミコトという言葉がある。

これは、初めて国を治らしたスメラミコト(天皇)という意味。

これは、初代天皇である神武天皇や、初めて神々の祀り方をととのえた10代崇神天皇のことを指す。

ちまたでは、力による領有が”うしはく”であり、徳による統治が”しらす”という説明がされる。

その説明であながち間違ってはいないのだが、

こう書くと、”うしはく”はダメで”しらす”こそが大事だと捉えられることがある。

だが、そんなことはない。

どっちも大事である。

”うしはく”は決して暴力的なことを意味しない。

”うしはける者”とは、頼り甲斐のあるリーダーということなのだ。

「おまえらの面倒は俺が全部見てやる!だから、俺についてこい!!」

そう言い切れるカリスマ的なリーダーである。

面倒見がよくて、仲間を大切にし、困っていたら助け、弱きを守り強きをくじく。

食べ物を確保し、生活を安定させ、敵から仲間を守る。

そんな頼れる漢がうしはける者。

では、もうひとつの統治の仕方、”しらす”とはどういうことか?

しらすとは、依存しあう関係を断ち切ること。

うしはくには、領有という漢字が当てられる。

リーダーが仲間を引っ張る。国民も国土もリーダーが把握する。

おまえらの面倒は俺が見てやるからおまえらも俺についてこい!

それがうしはく。

一方の、しらすは、国民も国土も誰の所有でもないという立場に立つ治め方。

しらす者は、ただ天の意思にのみ寄り添い動く。力をもたないので頼り甲斐はない。

今生の人間関係の損得よりも天の意思が優先される。

行動の判断基準は個人の意思というよりは全体の調和に適うかどうか。

損得を超えた次元にあればこその意思決定。それをこの世界でもっとも体現されてる方が天皇陛下である。真に平和を希求するものからすればこれほど信じられるリーダーはいない。

うしはくは、個人の力量が試される。

しらすは、個人の徳の高さが試される。

うしはける者の代表としてアマテラスよりニギハヤヒに与えられた神宝は、十種の神宝という、現実に悩み苦しむ民を具体的に助けることのできるツール。

しらす者の代表としてアマテラスよりニニギに与えられた神宝は、三種の神器という、自らを磨き徳を高めるためのツール。

うしはく者としらす者、この両者の和合こそ、この国における”国譲り”。

それは、いわゆる政権交代ではない。

役割分担。

残念ながら世の中から目先の利益で動く人はなくならない。その人たちをまとめる頼れるリーダーは絶対に必要だ。同時にそれだけでは真の平和に近づくことはできない。

損得をこえたところで天意に基づいて動くリーダーもまた絶対に必要。

うしはくリーダーとしらすリーダーは、お互いの役割を求めあう。

損得をこえたところで動くには力はもたないほうがいい。

すべてを手放す必要がある。大いなるものにすべてを委ねることが求められる。

しらす者が無防備で天地の渡し(私)としての役割を果たせるように力あるものが守り支える(僕)。

卑弥呼とその弟

ニニギ(スメラミコト)とオオクニヌシ

神武天皇と長髄彦

ヤマトヒメとイザワトミ

天皇(朝廷)と征夷大将軍(幕府)

国譲りとは、うしはける者の持つチカラをしらす者に預け、しらす者の持つ徳をうしはける者に託すという、この国にしか存在し得ない究極の協力体制のことである。

これにより、中国が70年の国家であるのに対し、日本は2677年という世界一の長さを誇る国家になるのである。国譲りを対立と見るか、協力と見るか。

解釈は自由。ならば自国を愛せる解釈を僕は与えたいと思う。 山田祥平 合掌

食事は神事

  食事は神事、もしくは神事として受け止めることができるものです。

箸とは、日本の神話『古事記』において、スサノオという神が箸を拾うことで人と出逢ったように神と人とのハシワタシをしてくれるもの。

そもそも、『ハシ』という言霊自体が、二つのものをつなぐ示しという意味があります。

(橋=岸と岸をつなぐ、端=端っこは二つのものをつなぐところ)

正月のお箸は両方からつまめるようになってますが、あれは取り箸ではなく、神と人が同時に食べれるように配慮された形。

食事の際に手前で横向きに置かれた箸は手に取る前は神様の食事を意味し、手に取った後は人間の食事になったことを意味する境界線を示す。

私たちの口に入るものは何一つゼロから生み出すことはできない。必ず天地万物という自然界の力を借りている。だから、まず最初に三界の神(天つ神・国つ神・八百万の神)に捧げる。その残り物を人はいただく。

とはいえ、神はエネルギー、形はない。ゆえに物は減らない。では何を食べているのか?それは人の想いである。

その行為を『嘗』という。『嘗』という漢字を見ると、”光”を”口”から取り込んで”旨”い!となっている。僕らが彼らを想うその氣持ちが彼らのご馳走となる。《ちなみに、その年の新米を最初に天照大神という伊勢の神様に捧げるお祀りを【神嘗祭】(=10月15.16日)という》

神々の喜びの波動が沁み渡った食事は、味も波動も変わるもの。元氣になるし、健康で幸せになる。これを「のこりものには福がある」という。

  食前の挨拶である『いただきます』は”頂き坐す”であり、山の頂きから受け取ることを意味する。すべての恵みは高き所から低き所へと流れる。

”いただきます”の本質は、恵みの源から届けられるものをただただ有難く感謝していただくこと。大切なのは目の前の食事に心をこめること。

食後の挨拶である『ごちそうさま』は”ご馳走様”であり、走り回ってくれたことに感謝する言葉。”お疲れ様”にニュアンスは近い。だが、ある点で決定的な違いがある。お疲れ様は他人事だが、ご馳走様は自分事なのだ。だって、食べてしまっているのだから。受け取った恩にどう応えていくのかが問われる。人の労苦を想い、動植物の尽きし命を想うとき、この身を通して何をなすべきかにスイッチが入る。生かされた命を何に使うのか。

その決意を新たにする言葉が『ごちそうさま』。

『いただきます』では”何のおかげ”で生かされているかを思い出し、『ごちそうさま』では”何のため”に命を使うのかを問い直す。

もし、ある人が食事のたびに『いただきます』と『ごちそうさま』を今日から丁寧にし始めたなら、その人の人生はどうなると思いますか?

もし、多くの人が、食事のたびに『いただきます』と『ごちそうさま』を大切に唱えるようになるなら、世界はどうなると思いますか?

もっとも身近なことにこそ、もっとも世界を変える力を秘めているような氣がします。 

世界が変わるのは意外と簡単かもしれません。

あなたと出逢えた今日のご縁に感謝します。

参考までに僕が毎回の食事ごとに唱えているイノリコトバを載せておきます。

参考にされてください。

またもしよければあなたのイノリコトバを教えてください。

祈りがあたりまえの世界になるといいですね。

感謝∞弥栄

山田祥平   合掌

【イザナギとタマネギ】

この世界に存在する形あるものは、すべて形ないものから生まれている。

人がつくりだしたもの、たとえば、お箸やお茶碗、靴や洋服、電車や自動車だってみんな誰かがつくりたい!という意思や想いをもったところから生まれた。

自然界にあるものはどうだろうか?

草木や花、動物や虫、鳥や人間、それらも誰かの意思によって生まれたと考えるのは不自然だろうか。

目には見えないがこの世界に存在するものを創りだした存在たちを日本では神と呼ぶ。

この地球上に存在する森羅万象を産み落としたのが、イザナギとイザナミと呼ばれる夫婦神だ。

二人のまぐわいによって森羅万象を象徴する三十五柱の神々が誕生した。

その神々が淡路島の伊弉諾神宮の旧参道にモニュメントとして並んでいる。

ぜひ機会があったらみてほしい。

モニュメントちなみにこれは特別バージョンで、イザナギ・イザナミ・ククリヒメ

さて、淡路島には伊弉諾神宮という有名な神社がある。

淡路国一之宮である。ここは伊弉諾尊を祀り、幽宮とも呼ばれる。

イザナギイザナミ

淡路島はイザナキとイザナミが最初に国生みで産み落とした島として知られるが、この神社の意義はそこではない。

かくりのみやという名前にもあらわれるように、隠れて居た場所、つまり隠居場所なのだ。

誰が?もちろん伊弉諾尊。

伊弉諾尊は妻である伊邪那美命と二人で天之瓊矛をかき回し、滴る塩からおのころ島を創りだした。おのずから転がる島、つまり自転する星、地球だ。

そこに降り立った二人は、仲睦まじく”みとのまぐわい”というものをして淡路島を皮切りに、四国・九州、佐渡などの14の島々と森羅万象を象徴する35柱の神々を産み落とした。

これが世に言う国生みと神産みである。

そして、森羅万象のひとつ、火の神様をその胎内に身ごもったイザナミはその力にやられて病に伏してそのまま帰らぬ人となってしまう。

その死を悲しむあまりイザナギは死者の世界である黄泉の国へと赴く。

そこで見たものは変わり果てたイザナミの姿。腐り果てウジがたかり雷がとぐろを巻いている。

ハタと我に返ったイザナギは黄泉の国から逃げ帰り(黄泉還り→蘇り)、水に浸かり穢れた身体を禊する。

そのとき、イザナギの服からも穢れた身体からもたくさんの神様が誕生する。

すべてが清められたとき、イザナギの顔から尊きものが溢れ出る。

左目から天照大神、右目から月読尊、鼻から素戔鳴尊という三貴子と呼ばれる日本を代表する神々たちである。

彼らの誕生はイザナギを非常に喜ばせた。彼は自分の行いを恥じていた。愛する妻のためとはいえ、自分の息子である火の神様ヒノカグツチをその手にかけて殺し、妻を求めて死者の世界へ赴き、見るなという妻との約束を破ってその変わり果てた姿を見てしまう。

その自身の穢れを清めんと水に浸かり禊をし、自らの良きも悪しきもすべてを認め、許せたときに溢れ出たものが涙。

その純粋なる涙から生まれた三貴子。尊き存在であることは疑いようがなかった。

イザナギは彼らにこの世界を任せると決める。(ちなみに、あの世界《あの世》はイザナミが担当する)

アマテラスには太陽を、ツキヨミには月を、スサノオには海を担当させた。

イザナギはそれぞれを大切に育てた。ところが末っ子のスサノオは亡き母の愛を求めた。

それを叶えることができないイザナギは苦しい想いを抱えながらスサノオを追放する。

そして、自らはこの世界を彼ら三人に任せて自分は手出しをしないことに決め、隠遁の地として妻と二人で最初に産み落とした島である淡路島を選び、海からあがってくる。

その地が今の郡家という港町にある浜の宮という社。

真西に向いたその社はまさに夕日が沈むのを日々待ち望んでいるかのよう。

この神社の大祭は4月22日。おそらく、旧暦3月22日を新暦に直したものかと思われる。

だとすれば、この日は春分。太陽が真東から昇り真西に沈む日。

この日、日が昇る場所(この世を象徴)と日が沈む場所(あの世を象徴)が一直線につながる。

イザナギがイザナミに対面できる日。

その日を待ってイザナギはより内陸(現在の伊弉諾神宮の地)にひっこんだのだろう。

海を見て黄昏れる数ヶ月。イザナミに想いを馳せながら、息子達の活躍を見守りながら。。

例大祭の4月22日には、伊弉諾神宮から神輿がきます。

イザナギさんがこの浜の宮までやってくるのです。

ここで過去の記憶を懐かしみ、原点に帰り、再び伊弉諾神宮へと帰っていくのです。

イザナギがこの淡路島を終焉の地と選び、ここから何を祈ったか。

それは、三貴子に託したこの世界が、恒久に平和であり続けますようにということではないでしょうか。

この世とあの世、暮らす世界は違えども平和を祈り続けるイザナギとイザナミの折り合う想い。

それが形になったもの。

《 た・ま・ね・ぎ 》   魂   願

淡路島ではそこらじゅうで栽培されていて甘くて柔らかくてしかもめちゃくちゃ美味しい!

タマネギはイザナギとイザナミの二人の魂の願い。土の上に半分、土の下に半分。

見える世界と見えない世界を半分こ。

二人の時空を超える愛の結晶。そう思うと、なんだかタマネギが愛おしく思えてきませんか?

たまねぎ土

p.s

浜の宮さんは、阪神大震災で社殿が壊滅的な被害を受けました。

その建て直しの御用材を提供したのが、伊勢の神宮なのだそうです。

自立を願い、手を出さずに信じて見守った子供アマテラスが年月を経て成長し、父のピンチに屋敷を修復した。

神話だけど、今に通じる。

これが生きる神話を体感する世界。

偶然かもしれませんが、ちょっと面白いとは思いませんか^^